私が、高校生時代の頃に出逢った先生。
先生の講話を聞かせていただいてから、私の中の何かが変わりました。
先生が執筆している一部をブログにて紹介したいと思います。
『あたりまえということ』
人は病気の時に健康のありがたさを知る。
という言葉があります。
以前、三十代の若さでガンのために亡くなったある医師が、死の直前に最愛の妻と幼い我が子に『あたりまえ』という詩を書き残しています。
あたりまえ
こんなすばらしいことを、
みんなはなぜよろこばないのでしょう
あたりまえであることを
お父さんがいる、お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある
行きたいところへ自分で歩いてゆける
手をのばせばなんでもとれる
音がきこえて声がでる
こんなしあわせはあるでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない
あたりまえだ、と笑ってすます
食事が食べられる
夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝がくる
空気をむねいっぱいにすえる
笑える、泣ける、叫ぶこともできる
走りまわれる
みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを、
みんな決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは、
それを失くした人たちだけ
なぜなんでしょう あたりまえ
もうひと昔前になりますが、『最近の若者は、無気力、無感動、無責任の三無だ』と言われた時代がありました。
いろいろな分野で、発展を繰り広げられてきた今の社会が、その便利さと引き換えに失ってきたものがあるとするならば、それは『こころ』の部分だと思います。
目は物を見るために、耳は音を聞くためにあるのと同じように、心は自由に物事を感じ取るためにある。
という言葉があります。
人と人とが関わっているときに、『そんなあたりまえのこと、もうわかってるよ』
『どうせなにか言ったって、同じだから』と話している人はなんとなく寂しげな表情をしていると思いませんか?
『あたりまえ』という言葉や感覚に、自分の身の回りが包み込まれてしまうとき、本来自由に伸び伸びと使うことができる私たちの心も、その特性を失ってしまうのかもしれません。
ガンという病気と激しく闘っている最中でさえ、井村医師は、道端の名もない花を見ても、
どうしてこんなに美しいのだろう。
どうしてこんなに光り輝いて生きているんだろう
と思えてきて、涙が止まらなかった。
と記しています。
今、自分が『あたりまえだ』と感じていることに対して、一度じっくりと考えてみることが、与えられた生命のありがたさをもっと広く、そしてもっと深く知ることにつながっていくのだと思います。
著者:宮崎伸一郎
March 21, 2009
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